佐渡 真言宗智山派 成就山管明寺

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管明寺の見所 佐渡管明寺の本堂
● 本堂
白象
● 県道沿いの白象
不動明王と眷族
● 二体の不動明王と眷族
弘法大師生い立ちの絵
● 弘法大師生い立ちの絵
ぽっくり地蔵
● ぽっくり地蔵
天満宮
● 天満宮
日吉神社射手畑跡
● 日吉神社射手畑跡
四十九院の塔婆で囲まれたお堂と子安地蔵
● 四十九院の塔婆で囲まれたお堂と子安地蔵 真言宗智山派のホームページへリンク
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ご挨拶 真言宗智山派 成就山 管明寺
 佐渡市上新穂(かみにいぼ)にございます。成就山 管明寺(じょうじゅさん かんめいじ)の住職・松山隆典です。当管明寺は、県道65号線に面し通り沿いには、白象がご覧いだたけるのですぐお分かりいただけます。
 本堂には、『弘法大師像』をはじめ『弘法大師生い立ちの絵』や『二体の不動明王と眷族』や『天満宮』等見所が数多くございます。また、近くには朱鷺の放鳥で有名な野生復帰ステーションもあり自然豊かでのどかな所にありますので佐渡にお越しの際は、是非お立ち寄りください。
宗祖 弘法大師・空海
 弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学。中国の哲学、思想を学びますが、立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになり、24歳の時、『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。
 延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは遣唐使船に乗り長安をめざし、密教の師を求めて諸寺を歴訪し、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡り合い。恵果阿闍梨は受け継いだすべての教え、密教の奥義をお大師さまに伝え、お大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめ、20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝しました。
 帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。
真言宗智山派
 叡智そのものであり、根源の光そのものである大日如来は、太陽の光のようにあらゆる時代、場所にさまざまな姿で現われて、すべての生き物を救うために説法をしています。
 宇宙間のすべて花鳥風月草木に至るまで大日如来の説法です。そして弘法大師は、本来成仏している自己の発見を「即身成仏」という言葉で表しました。
 すなわち、密教以外の教えは「三劫成仏」(さんごうじょうぶつ)といい、無限に長い間の修行によらなければ成仏できないとしますが、弘法大師は、この身このまま「即身」に「成仏」が実現するとしました。
 なぜなら、私たちと大日如来は本来同じであるからです。
総本山智積院
 智積院は根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての性格を持つ寺として、江戸時代には多くの学匠を輩出するようになります。
 しかし明治時代になると、新政府の神仏分離政策により土地を没収され、また、明治15年(1882)には金堂が焼失するなどの不幸にみまわれます。しかしこれらの困難を乗り越え、明治33年(1900)、真言宗智山派の総本山となったのです。山号を五百佛山(いおぶさん)寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。
 こうして弘法大師の教えは高野山から興教大師の根来山に、そして智積院へと脈々と伝えられ、現在、智積院は全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆さまの総菩提所、総祈願所となっています。